続 渡慶次の歩み
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プロローグ
渡慶次の歴史探訪

 

渡慶次の歴史探訪

 普段、何気なく目に触れるものの中に深い貴重な歴史的意義を秘めているものが多い。ややもすると私たちは、それをいとも簡単に見逃してしまうことがある。
 仲間同士、あるいは親子で時に触れ、機会を捉えて話題にすることも足下の歴史に新たな認識を深めることができよう。そのことが渡慶次集落への愛着を高め、さらなる実践につながることが期待される。
 公民館及びその周辺は渡慶次の歴史の宝庫であり、いわば歴史が凝縮されたところである。
 

公民館敷地内

(1) 渡慶次集落センター
 
00pro03-集落センター
 
 渡慶次集落センターは1983年(昭和58)公共事業を導入して竣工した。
 集落センターが建っている場所は公民館敷地全体からすると隅に追いやられている。屋号知花や仲西の近くまで来ている訪問者が「公民館はどこか」と再三尋ねるという珍現象がよくある。玄関も裏路を通り探しにくいからである。
 当初の設計では北側の宇座へ至る村道に面し、現在のゲートボール場に建築を予定していた。ところがその一部が瀬名波通信施設の軍用地であったため、共同使用申請をし、建設推進委員会は読谷村役場担当課と連携し最大の努力をしたが許可がおりなかった。やむなく設計図を変更し、現在の場所に建てたのである。こともあろうに建築中にその部分の軍用地は開放され、敗戦直後と同じように歴史に翻弄(ほんろう)されたのが渡慶次集落センターである。
 
(2) 獅子屋(シーシヤー)
 
00pro03-獅子屋
 
 集落センター南側にある瓦屋根の小さな小屋が獅子屋である。渡慶次の獅子舞は約250年の歴史を持ち、無病息災を祈願する渡慶次区の守護神とされ、字事務所・公民館・集落センターと建物が建て替えられる毎に獅子屋も移動を余儀なくされた。
 
(3) 屋外ステージ
 
00pro04-屋外ステージ
 
 屋内のステージだけでは、規模の大きなイベントができないため、1993年(平成5)屋外ステージを造った。
 渡慶次まつりで機能を最大限に発揮するのが屋外ステージである。集落センターホールで収容できない人数のイベントには屋外ステージを使用し中庭が観覧席や宴会場になる。普段は区民の気軽な休憩所にもなり、今後も多用な利用価値が期待できる。
 
(4) 中庭
 
00pro04-中庭
 
 中庭は農村基盤総合整備事業の公共事業を導入して整備された。エイサー祭り、青年会主催の角力大会及び区民の最大のイベントである渡慶次まつりで効果的に利用されている。区民の憩いの場、子ども達の遊びの場所であるため、土ぼこりが立たないよう芝を植え付け、保全に努めている。時節により土俵やヤグラを造るため、一部芝がはぎ取られるが、公民館職員の心づかいにより修復され、常時緑のじゅうたんに覆われている。
 
(5) 3つの功績記念碑
 
00pro04-記念碑
 
 丸数字1 博報賞受賞記念碑
 「博報賞」は広告を主として経営する企業博報堂が学校教育や社会教育に顕著な功績があった個人または団体に授与するものである。1999年(平成11)
 
00pro05-獅子舞クラブ碑
 
渡慶次子ども獅子舞クラブが社会教育部門で高い評価を受け、「博報賞」を受賞した。村内の関係者を招き区民あげて受賞祝賀会を開催し、記念碑が建立された。
 
 丸数字2 婦人会八十周年記念碑
 
00pro05-婦人会記念碑
 幾多の苦難な道のりを克服し、婦人会が誕生して2000年(平成12)に80年を迎えた。常に明るく住みよい地域づくりの灯をかざした、その歴史の重みを「村おこし 灯(ひ)をともしてぞ 幾星霜 明日に継承(つた)えん その志」の短歌に託して記念碑を建立し、祝賀会を催した。
 
 丸数字3 天皇杯受賞記念碑
 
00pro05-天皇杯記念碑
 
 天皇杯は、農林水産祭参加行事において農林水産大臣賞を受賞した中から、渡慶次が「むらづくり部門」で最も優れた地域として表彰されたものである。
 渡慶次の先人たちのむらづくりへの情熱と努力が積み重ねられ、それが今日まで継承され見事に結実して、2005年(平成17)沖縄で初めての栄誉に輝いた。明治神宮会館での授与式、マスコミや県内関係機関への表敬訪問、多くの区民が参加しての受賞祝賀会、天皇皇后両陛下への御拝謁、県庁内での展示イベント、記念誌発刊等の関連行事を終えこの石碑が建立された。
 
(6) 農村基盤総合整備事業推進委員会推進委員の刻銘碑
 
00pro06-記念植樹
 
道路整備や渡慶次農村公園整備事業を推進した14名の委員の尽力に敬意と感謝の意を表し、記念植樹の下に刻銘されている。 
 推進委員:山城※※ 山内※※
 玉城※※ 大城※※ 玉城※※
 山内※※ 与那覇※※ 玉城※※
 与那覇※※ 安田※※ 儀間※※
 与那覇※※ 福地※※ 与那覇※※
(7) ゲートボール場
00pro06-ゲートボール場
 排水もよく見事なゲートボール場が農村基盤総合整備事業の一環として完備され、老人の健康増進や諸々のイベントの場として有効活用されている。
 
(8) 農村基盤総合整備事業掲示板
 
00pro06-農村基盤事業掲示板
 
 宇座集落に向かう村道から渡慶次集落センターへの進入路右手にこの掲示板が立っている。事業内容や経費及び施工された図面があり、一目で事業の概況が理解できるようになっている。
 
(9) 渡慶次農村公園案内標識
 
00pro06-農村公園標識
 
 農村基盤総合整備事業の一環として農村公園が整備されて、案内のための標識が設置されている。
 
(10) 「人和定風水」の記念碑
 
 1994年(平成6)に農村基盤総合整備事業の竣工を記念して建立された。区民の協調性を「和」で表し、「風水」もここに定まった区民の達成感が読み取れる。
 石碑の下には戦時、戦後の混乱期にあっても「和衷協力」の精神で乗り越えた地域再建への堅い志が刻まれている。
 
00pro07-人和定風水碑
 
(11) 「大池之跡」の石碑
 
00pro07-大池之跡
 
 渡慶次の大池は、1737年(元文2)蔡温が産業振興のため奨励して作らせたというから現存すれば270年の歴史を持つことになる。灌漑用水にとどまらず、防火用水、農器具洗い場としても活用された。また鯉を飼育し、それを売って財源にした時期もあった。
 水道施設が完備されるとともに必要性が無くなり、1974年(昭和49)に埋め立てられた。
 
(12) カナチ口(グチ)
 
00pro07-カナチ口
 
 ゲートボール場北側の中央部分に古びた石柱が立っている。それには「カナチ口(グチ)」とあるが、正式には「カヌチ口」が正しいと思われる。カヌチ口は、綱曳きで雄綱と雌綱に棒(カヌチ棒)をさし込み結ぶ東西の中心点を示す位置のことである。1958年(昭和33)改修と記されているが、石柱は戦禍をまぬがれた戦前からのものである。
 

公民館周辺

 
(13) 瓦屋(池原小(イチバルグヮー))
 
00pro08-瓦屋
 
 公民館東側に瓦家が一軒建っている。1947年(昭和22)仮住いの高志保などから渡慶次への移動が認められ、郷里に帰ることのできる喜びと復興への意欲に燃えて次々区民が移動を開始した。その時に建てられたのがこの瓦屋である。
 家主の池原※※は県下屈指の石工であり、戦後も石材を用いた建物の修復はほとんど彼の手で施されたという。石工のみならず木工にも優れて、字座喜味の民家を譲り受け一人で移築したと言われている。
 さて、帰郷後、1年足らずで渡慶次は立ち退きの軍命が出て、他字の青年会の協力でほとんどの区民は立ち退きを終えた。ところが、池原※※は軍命を拒否し、立ち退かなかった。ブルドーザーで敷き壊すとの説得にも応じなかった。結果は池原※※の勝利に終わった。この瓦屋は大きな歴史を秘めた建造物である。
 
(14) アシビナー
 
00pro08-アシビナー
 
 屋号知花の東側に三角型の広場がある。これがアシビナーである。旧8月15日は年に1度の村アシビがあり、舞踊・演劇等が演じられ、区民もそれを心待ちにしていた。
 村アシビが近づくと、観覧席確保のため陣取り合戦もあり、地域の唯一の娯楽として、また、文化創造の場として遊び庭の果たした役割は大きかった。
 四方が道路拡張されたため、峡あいとなり、渡慶次子ども獅子舞クラブの空き缶・空き瓶回収の集積所等として活用されていたが、現在は農業同好会が利用し、渡慶次まつりの花の育苗所としている。
 
(15) アタトーヤー
 
00pro08-アタトーヤー
 
 渡慶次御嶽の西側の広場がアタトーヤーである。巫女(ノロ)や根神が集まって祭事や神々への祈祷を行った場所であり、神アサギと同一のものと思われる。
 渡慶次文化財保存委員会が古くなった建物を新築し、その前にはアタトーヤーの由来が刻まれた石碑が建立されている。中央部分には質素な拝所があり、昔の面影をしのばせている。
 
(16) 馬アミシーグムイ
 
00pro09-馬アミシーグムイ
 
 アタトーヤー南側の道路越えに三角型の小さな野菜畑がある。ここが馬アミシーグムイと呼ばれていたところである。昔は自然に出来た沼池で水辺の動植物も多く見られ、干ばつでも干上がることがなく、地頭代の愛馬を浴びせる専用の沼池であった。
 
(17) 地頭火之神(ジトゥーヒヌカン)
 
00pro09-地頭火之神
 屋号蔵元の旧屋敷北東に地頭火之神がある。そこはかつての渡慶次地頭(村落統治者)の居所であり、地頭代の詰め所には火之神が祀られる風習があり、地頭火之神と呼ばれるようになった。
 1988年(昭和63)渡慶次文化財保存委員会が地頭火之神の石碑を建立し、階段を上がると瓦屋根の小さな拝所がある。
 
(18) 渡慶次御嶽
 
00pro09-渡慶次御獄
 忠魂碑が建立されている一帯を渡慶次御嶽と呼んでいる。
 古代琉球では大きな岩が立つところや大木がうっそうと茂っているところ、小高い丘、海に突き出ている部分を御嶽またはグスクと称するところがある。渡慶次御嶽もその一例である。
 昔は大木が生い茂り、見るからに神々しく聖域であったが、今は周辺の塀も整備され、境内の樹木も枝打ちされている。
 
 丸数字1 忠魂碑
00pro10-忠魂碑
 
 日露戦争で亡くなった渡慶次区出身の3名の犠牲者を弔うために渡慶次在郷軍人会が1913年(大正2)に建立した古い石碑である。
 渡慶次区民は今次大戦後、この忠魂碑を戦没者の慰霊碑としてその霊を弔ってきた。台風のため大木が倒れ、碑が押し倒されたが、その都度改修工事を行ってきた。中央の塔の裏には日露戦争の戦没者3名と「支那事変」の3名の計6名の犠牲者が刻銘されている。
 忠魂碑の横には、今次大戦で犠牲になった多くの軍人軍属一般住民の霊を弔い恒久平和を希求するため、全戦没者の刻銘碑がある。これは「平和の礎」を先取りした、渡慶次区民の平和への強い気持ちが込められている。
 ここで、歴史を正しく認識する意味で「忠魂碑」について触れておく。国のため、天皇陛下のために戦って死んだ軍人や軍属の「忠義」の魂を顕彰するために建てられたのが「忠魂碑」である。そのような英霊を褒め称える風潮がやがて多くの若者を戦場に送り、今次大戦の悲惨さを生んだのである。
 しかし、渡慶次では60年余にわたり忠魂碑を慰霊碑として毎年6月23日に慰霊祭をこの場所で実施している。2006年(平成18)8月15日、住民心情に配慮し、忠魂碑という歴史的建造物を慰霊碑として見なし再利用することが合意がされ、碑の右側にその趣旨が刻まれている。
 
00pro10-碑趣旨
 
 丸数字2 ボージヌ前(メー)
 忠魂碑の左側に大きな岩があり上部には蘇鉄やガジュマルが生い茂り神々しい感じがする。その岩がボージヌ前である。ボージヌ前の呼称には多くの説があり、いまだ解明されていないが、渡慶次集落形成に大きく貢献した人物であったことは想像に難くない。旧8月2日にボージヌ御願があり、連綿と継承されている。
 
00pro11-ボージヌ前
 
 丸数字3 拝所
00pro11-拝所
 
 御嶽の境内に石組みの古をしのばせる質素な拝所(火之神)がある。
 
(19) 按司墓
 
00pro11-按司墓
 
 御嶽北側、屋号虎城間屋(トラーグスクマヤー)の道を挟んで東に按司墓がある。
 
(20) 無縁墓
00pro11-無縁墓
 
 公民館西側道路と村道との十字路を北進すると、左側に木立がある。その下に3基の無縁墓があり、渡慶次区で供養している。
 
(21) ガンヤーヌイー
 
00pro12-ガンヤーヌイー
  
 無縁墓より北に目を移すと樹木が生い茂った小高い丘がある。そこは渡慶次区所有地で、昔は中ほどに自然の芝が生えた広場があり、そこで舞踊や演劇を練習していた。クィーシラビ(持ち声調べをして村遊びの配役の参考にする)をしたり、青年会幹部の打ち合わせ場になったりと青年会活動の場でもあった。
 2006年(平成18)に瀬名波通信施設(軍用地)が全面返還された。近接する渡慶次運動広場と結びつけた有効的な跡地利用が今後の課題である。
 
(22) 不動(フルー)家
 
00pro12-不動家
 
 運動広場手前の道路沿いに不動家がある。不動は、朝儀・蔵根とともに渡慶次集落の先住者であり創建者である。
 家の中には不動の先祖の仏壇の隣に渡慶次創建者の祖霊が祀られた礼壇があり、字渡慶次関係者による祭事が行われている。
 
(23) 不動明王
 
 不動家の西側にブロック塀で囲まれた拝所がある。
 
00pro12-不動明王
 
 不動明王は、五大明王の主尊、堅固で不動の菩提心の威力によって悪魔や迷いの総てを押え鎮めるといい、如来の使者として真言行者の護持にあたる。
 その像は、顔は怒りの相を表し、右手に降魔の剣を、左手に縛の縄を持ち、火炎を背にして石のうえに据る。
 所によっては石獅子を村の四つ角に置き、フンシ(風水)返しをしてある所もあるという。
 根神が出た由緒ある旧家の根所ゆえに、不動門中はもちろん、不動門中との関わりで他市町村からの関係者もここで祭事を行っている。
 
(24) 朝儀(アサギ)
 
00pro12-朝儀
 
 渡慶次近所原通り沿いに屋号朝儀の住宅がある。朝儀は渡慶次区の先住者であり創建者である。
 年頭の初御願、清明祭の引合(ヒチエー)(報告すること)、旧7月16日の旗スガシー、旧10月1日のカママーイ、旧12月24日の解御願(フトゥチウグヮン)等の祭事には祖霊を拝している。
 渡慶次区やその他の関係者が御願の際、頻繁に出入りするので、家長儀間光一は屋敷内に別棟を建てることとし、渡慶次区からは100万円を助成した。1994年(平成6)竣工。
 
(25) 蔵根小(クラニーグヮー)
 
00pro13-蔵根小
 
 公民館西側に渡慶次の先住者である屋号蔵根小があり、渡慶次区の創建にも関わった旧家であり、祖霊が祀られている。
 屋号から推測すると、租税や会計等を担ったと考えられる。また蔵根小は前ヌ寺(ミンティラ)(15頁参照)の管理も行っていた。
 
(26) 「継承!明日へ躍進」の碑
 
00pro13-明日への躍進碑
 
 運動広場入り口西側にこの石碑が建立されている。祖先から継承された尾頓川山野を売却し、その資金で運動広場建設資金の一部に充て渡慶次運動広場が完成した。
 完成以来、子どもから年輩の者までが幅広く活用し、区行事のスムーズな運営、区民の健康増進への寄与、多くの優秀選手の輩出等、その躍進ぶりは石碑の名称に示されているとおりである。
 
(27) 協力地主の刻銘碑
 
◎[写真] 本編参照
 
 運動広場用地の確保に協力いただいた多くの地主の深い理解と協力に感謝して、「継承!明日への躍進」の碑の裏側に協力地主名が刻まれている。
 
(28) カタノー馬場(ババ)跡の石碑
 
00pro14-カタノー馬場
 
 潟野馬場は字有地で、毎年旧6月25日、26日競馬が行われたところである。速さを競う競馬ではなく、騎手の手綱さばきによる特殊な歩行を競う競馬であった。道路をはさんで両側には出店が並び、子どもから大人まで村内外から多くの観客がつめかけ、終日にぎわいをみせた。
 競馬が終わると、角力大会がその場で始まった。今日、渡慶次青年会が継承している角力大会がそれである。
 運動広場建設のためその代替地用地として個人の所有になったため、かつてのカタノー馬場を望むこの場所に石碑が建立された。
 
(29) 給水所
 
00pro14-給水所
 
 待望の長浜ダムが完成し、土地改良区には灌漑施設が完備されたが、改良区外は依然として雨待ち農業が続いていた。それを解消するため給水所(農業用水)が設置され、多くの農家が恩恵を受けている。
 
(30) アンテナ(NTTdocomo、au)
 
00pro14-アンテナ
 
 給水所の北側道路に高い鉄塔が見える。携帯電話会社のアンテナが建っている。瀬名波通信施設が長年軍用地として使用されたように、この一帯は平坦な地形で電波障害が少ないため、NTTが2005年(平成17)4月、auが2009年(平成21)2月にアンテナを建てた。
 
(31) 大井(ウフカー)(泉)
 
00pro15-大井
 
 潟野馬場石碑より農道を西に下り、左折して緩やかな斜面路を下ると四辺をフェンスで囲まれた場所に大井がある。こんこんと湧き出る豊富な水量は集落形成に必要不可欠なものだった。
 命を支える水への感謝と畏敬の念は人間共通の心情である。拝所を設けて神格化し、御願の神事をすることにより泉を共同で保護する行為が井(カー)の御願である。
 集落内に井戸が掘られる以前はこのような泉が地域住民の大事なライフラインであり、渡慶次区ではチンガー、ミントゥガー等があった。
 
(32) 前ヌ寺(ミンティラ)
 
00pro15-前ヌ寺
 ホテル日航アリビラの駐車場左側に前ヌ寺の碑が建っている。前ヌ寺は、喜名観音堂と同性格のもので健康祈願・家内安全の祈願をする拝所で渡慶次や近隣の村人は前ヌ寺を拝んでいた。
 現在の前ヌ寺は西部連道地区土地改良総合整備事業によって字儀間高知口原の防潮林帯に移転した。
 太平洋戦争以前は松の大木が林をなし、アダンも生い茂り、通称「ミンティラマーチュウ」と言われたところであったが、沖縄戦によって全てが焼失し現在はその面影すら見ることが出来ない。
 
(33) 墓地団地
 
00pro15-墓地団地
 
 沖縄残波岬ロイヤルホテルから南に約600mの大久保原に墓地団地がある。
 土地改良やリゾートホテル建設のため、土地の有効利用を促進するため、1987年(昭和62)散在するお墓を一箇所に集め、この墓地団地はつくられた。
 
(34) 読谷村コミュニティバス・バス停
 
00pro16-コミュニティバス
 
 2009年(平成21)4月1日より読谷村のコミュニティバス「鳳(おおとり)バス」の運行が始まった。平日は北ルート、南ルート、東西ルート、海岸ルートの4路線が運行されており、北ルートが渡慶次を通る。渡慶次区内では、渡慶次公民館の南側入口に「渡慶次公民館前」、屋号朝儀の家付近に「渡慶次寺原」、長浜アパート前に「渡慶次小学校」と、3つのバス停が設置されている。以前より運行している民間の路線バスは通らない集落内にもルートが設定されているため、地域住民の交通手段として期待されている。
 
※渡慶次の歴史探訪位置図はグラビア(五頁)を参照してください。
 
 

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